「希望」という言葉

今年のまとめとは違うけど、今年色濃く感じたことなどを今日は書きます。

2012年、一番良く目にした言葉は「希望」という言葉です。
そしてほかの人の音楽や絵などの作品から感じ取ったものも「希望」でした。

それはなぜか。
それは2011年にあった「3.11」が関係していると思います。

今まで文章を書く中で「震災と絡めて何かを話すことはダサい」と私は感じていました。(今は思ってません。スイマセン)
震災以降の「日本、頑張ろう!」という張り紙を見るたびにうんざりしていたし、
作り手が作品を語るとき「この絵は震災が〜」と言う度に「ああまたか」と思っていた。
多くの人が震災を語った、その事に私はうんざりしていた。


だけど 父が死に、園子温の映画『ヒミズ』や『希望の国』などを見て私は考えを改めました。

父の死をキッカケに私は身近な人の「死」が怖く、この前の大きな地震も「誰かが死ぬのではないか」と他人の死さえも怖くなってしまいました。だがそれは、当たり前のことだったんです。
昔の自分は 「どうして人を殺してはいけないのか・自分が死んではいけないのか」 がわからなかった。
でも、「父の死」というものを体感してわかったんです、
人が死ぬのは、心の底から悲しい事だと。

すごく悲しいことがあったら、多くの人が反応するのは当たり前の事です。
それが私にはやっとわかった。

話が反れましたが「希望」についてです。

私が感じた主観ですが、

2012年前半は皆がむしゃらに前に進もうと若者に「希望のような曖昧なもの」を押しつけている空気を感じました。
 皆が混乱していて混沌としていた。
「震災」という言葉を聞くたびに若者は皆絶望し、そこで終わっていた。
「何かしなくてはいけない」、震災という大きなものに私たちが出来る事はなにもなく私たちは考えるのをやめた。

2012年後半から「希望」という言葉を頻繁に目にするようになった。
上のほうでも話した『希望の国』。
震災の映画なのになぜタイトルは「希望」なのだろうか?
この前の記事に書いた「非道に生きる」に園さんは書いていましたが「絶望に勝ったのではなく、希望に負けた」と。

また、同じ監督の『ヒミズ』では
主人公の借金を、人を殺してまで返したオッサンは、「どうしてそんなに住田(主人公に)良くするのか?」と聞かれた時に
「住田(主人公)さんは俺たちの希望なんだ!」と答えます。
そしてこの前上映をしたばかりですが、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」では
カヲル君はひたすら「希望はあるよ」「希望はまだ残っている」と「希望」という言葉を繰り返す。
この前終わったばかりのガンスリンガーガールでも「希望」という言葉を目にした。

私たちの日常は3,11から明らかに「非日常」になってしまって足元はもうグラグラだ。
そんな時でも私たちは考え続け、そして進化し続けねばならない。
古い世代の方が「未来を若者に託す」という事が私には無責任だし、嫌だなと思っていたけど

最近は古い世代の方が「しょうがねえ、もうお前たちに未来を託すしかねえ。お前たちが俺たちの希望だ!!」という振り絞った意見を見ると
それこそもう「希望」に見える。

絶望というのはすぐに終わるから楽チンだが、「希望」というものを掲げるのは難しい。
「希望」というのは曖昧であまり居心地のいいものではないから。
だけどもどうか、
 託された「希望」という言葉を胸にしてこれからは生きたいなって思いました。